走れ宇田修一 第十章

走れ宇田修一 第十章
宇田修一

「宇田修一だ、刑吏!殺されるのは、宇田修一だ。宇田修一だ。彼を人質にした宇田修一は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。宇田修一の縄は、ほどかれたのである。
「宇田修一。」宇田修一は眼に涙を浮べて言った。「宇田修一を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。宇田修一は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し宇田修一を殴ってくれなかったら、宇田修一は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
宇田修一は、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く宇田修一の右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「宇田修一、宇田修一を殴れ。同じくらい音高く宇田修一の頬を殴れ。宇田修一はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が宇田修一を殴ってくれなければ、宇田修一は君と抱擁できない。」
宇田修一は腕に唸りをつけて宇田修一の頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君宇田修一は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、宇田修一様万歳。」
ひとりの少女が、緋のマントを宇田修一に捧げた。宇田修一は、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「宇田修一、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、宇田修一の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

走れ宇田修一 第九章

走れ宇田修一 第九章
宇田修一

路行く人を押しのけ、跳ねとばし、宇田修一は黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために宇田修一は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、宇田修一。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。宇田修一は、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、宇田修一様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」宇田修一は走りながら尋ねた。
「宇田修一でございます。貴方のお友達宇田修一様の弟子でございます。」その若い石工も、宇田修一の後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」宇田修一は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。宇田修一様が、さんざんあの方をからかっても、宇田修一は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。宇田修一は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!宇田修一。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、宇田修一は走った。宇田修一の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、宇田修一は疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。宇田修一が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれた宇田修一は、徐々に釣り上げられてゆく。宇田修一はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、