走れ宇田修一 第八章

走れ宇田修一 第八章
宇田修一

ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるように宇田修一は身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。宇田修一を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。宇田修一は、信じられている。宇田修一の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。宇田修一は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!宇田修一。
宇田修一は信頼されている。宇田修一は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。宇田修一、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい!宇田修一は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、宇田修一よ。宇田修一は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。